white cat w/ blue eyes

就活、キャリア、趣味など

大学は本当に人生の夏休みなのか

人生の夏休み

 "大学は人生の夏休み"という言葉をよく聞く。

 夏休みの期間は私の大学で約2ヶ月あったので、4年間というのは通常の夏休み期間の24倍にあたる。休学者や院生を考慮すると4〜6年が多くの大学・大学院生が経験する"人生の夏休み"に該当する。

仮面浪人なんかしていないで、今すぐ海外に行け

 私は入学式当日、不安な思いと同時に周りを見下していた。

 希望通りの大学に合格することができず、センター試験7教科で引っ掛かった大学に進学した。入学式の日は、「なんだこの大学は」、「早く出て行きたい」などと不満を胸に、ドミノ倒しのように続く頭に残らない説明会をこなしていた。

 しかし、学部の留学説明会で、ある教授が周りを見渡しながら一言目にこう言った。

 

 "この中に仮面浪人を考えている人がいるだろ。そんなくだらないことを考えているなら、今すぐ海外に行け。"

 

 肘をついて聞いていた自分に、忘れていた重要なことを思い出させるかのような言葉であった。海外への憧れを抱いていた私は、その言葉を信じ、入学を決意した。

 

 その後の展開は頭を縦に何度も頷ける内容であった。外務省の派遣や長期交換留学による2度の渡米、留学生との英語開講講義、英語ケースコンペティション参加・準優勝、シドニーの国際会議参加・ビジネスケースコンペ準優勝、アジア、アメリカ、ヨーロッパの世界旅行など、自分の価値観を世界に広げてくれたものであった。

 

4年間積んだ小さな勝ち癖

 入学式から4年経ち、つい先日卒業式を迎えた。私が4年間行ったことはあまりにも多いけれども、小さいことかもしれない。しかし成長した点に満足していると同時に、未熟な点にも認識することができている。詳細は、今後のブログでゆっくりと振り返っていきたい。

 ひとつ言えるのは、大学は求める人に挑戦の選択肢を与えてくれる環境が揃っていることだ。

ZONE

 ゾーンに入る瞬間がある。

 

 周囲の音は途絶え、自分が意識して見ているもの以外は何も見えず感じない。意識して見ていたはずだが、もはや無意識の領域に陥っている。自分がどういう体勢で、どこに居るか、何時であるか、などはとっくに忘れ去られ、ただ物体としての身体がある。ただただ静かで、だけど頭はフルスピードで回転して、その瞬間が記憶に刻まれていく。

 

 誰にだって、このゾーンに入る瞬間はあると思う。試合本番のレースで走っているとき、買ったばかりのギターを弾くとき、ついに手に入れた本に読み耽るとき。生活の様々な瞬間で、何かに熱中するとき、それもかなりの情熱や興味が何かの対象に傾けられた時に起こる。なかなかこのゾーンに入ることは意識すると入ることが難しい。予期せず意図せずに、ふと気づいたら超集中空間に入っていて、それは後になって気づく。

 

 振り返ってみると、私はゾーンに入る時が何回かある。それはかなりの確率で電車内で発生する。大学1年次、最寄駅6:00の電車で2時間かけて兵庫→大阪→京都→滋賀の順に2府2県を跨いで大学に向かい、終電23:00頃の電車でまた2時間かけて帰路に就くのが毎日だった。その電車は様々な人が溢れかえっていて、混沌としていた。私は座席に座り、往復の電車内で大学の課題をしていた。パソコンを開いてエッセイや論文を書く日もあれば、読書や英語の勉強をする日もあった。なぜか2時間の通学にも関わらず、いつも一瞬であった。停車する駅は数え切れないが、気づいたら自宅の最寄駅についている。そして大学の図書館で勉強するよりもはるかに早い速度で課題が終了し、その完成度も高い。

 

 これは現在でも電車に乗る度に読書などをすると起こる。机に向かって勉強する時とはまた違う、超集中化された状態である。おそらく、何かしらの環境条件があって、それが自分の集中するのに最適な条件とベストにマッチしているのだと思う。周囲の人の目線、静か過ぎず煩すぎない音、到着駅までの時間的制約とそれによる緊張、最適な温度などだ。それらが揃う最適な環境は自分にとっては電車であるのだ。

 

 それは不思議な状態である。集中が深層レベルにまで到達し、脳が普段よりも数倍使用され回転し、身体と精神が分離した状態。物体としての身体が意識の外にあり、取り残されているような状態。精神だけが、ある一点に極度的に集中が傾けられ、そこで彷徨っているかのよう。まるで自分が無いような状態。

 

 ゾーンとは、脳が身体から分離して精神の深層レベルにある空間に飛び込むことを指すのでは無いだろうか。

グリーンアノール

  人は変化しなければならない。

 

 生物歴史上で絶滅した動物を見てみる。何で絶滅したのか。どういう環境で暮らしていたのか。何を求め生きていたのか。不確実性が現代よりも多い時代で生きるというのは想像以上に困難だと思う。いま生きている細菌、動植物、そして人類は生き残った生物である。そしていま存在する生物は未来に存在しているとは限らない。では、生き残るために何が必要なんだろう。

 

 私は、"変化への柔軟性"ではないかと思う。

 外来種のトカゲに"グリーンアノール"(別名:アメリカカメレオン)という生き物が存在する。昔、幅広い地域の木々の低い場所で住処としていたグリーンアノールは、昆虫類などを食べて生活していた。しかし、外来種の増加によってエサは減少し、爬虫類の増加で競争も激しくなった。そこでグリーンアノールは住処を木々の低い場所から高い場所へ追いやられた。しかし、木々の先端は枝も細く足場も安定しない。そこでグリーンアノールは手足の腹を大きくし、付着性も向上させたそうだ。また、外敵から身を守るために変色能力を身につけたそうだ。

 

 このグリーンアノールの進化は非常に重要な点ではないだろうか。外部環境(市場の競争激化、環境の変化など)に合わせて柔軟に自らの形態を変えて生き延びる。

 

 生物は自己保存の法則で、自らのテリトリー外に存在する敵を恐れ、安全と信じる慣れた環境にい続けるという。しかし環境が変わり、快適領域が脅威に陥った途端、そこに住む生物には死ししかない。なぜならば新しい環境に対応する形態ではないからだ。

 

 これは人間にも当てはまる。自分が慣れ親しんだ安全安心の快適領域(コンフォートゾーン)にい続けていれば、成長せず、時代に遅れていくだろう。コンフォートゾーンから脱却して初めて、挑戦になり、新たな糧になる。もっと具体的に見ても同様のことが言えるだろう。自分が得意とする手法、思考法をずっと繰り返すことは、自分にとっては簡単だ。しかしそれが有効なのは長期的に見ると一瞬で、その手法・思考が通用しない状況や条件もある。つまり、変化する状況に合わせて柔軟にアプローチを変えなければならない。独自資源を強みとしていくにしろ、それを必要とする人がいなければならない。

 

 企業や組織も同様だ。SWOT分析が示す、外部環境(脅威・機会)と内部環境(強み・弱み)を理解した上で、ビジネス活動を行わなければ利益にはならず、需要もなくなってくるだろう。市場を分析し、顧客のニーズを把握し、企業自ら変化し、アジャイルにスピーディーに行動する必要がある。時代の変化に合わせて、自らも変化し、時代をつくっていかなければならない。

 

 どれだけ外部環境が変化しているか常にアンテナを貼っておく必要があると同時に、その変化に自分も変化できるかどうかという柔軟性・適応能力が問われる。

 

 グリーンアノールから学ばなければならない。


photo credit: blog retrieved June 9th, 2017 from http://ogatour.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_e937.html
source: JESSICA HULLINGER.(n.d.). mental floss. "6 Animals That Are Rapidly Evolving". Retrieved June 9th, 2017 from http://mentalfloss.com/article/64300/6-animals-are-rapidly-evolving